空想犬猫記

※当日記では、犬も猫も空想も扱っておりません。(旧・エト記)

ユーザーイリュージョン―意識という幻想

5年以上も積ん読状態で,アメリカに渡ったり,それから何度も引っ越したりしたが,それでも古本屋に引き渡されることもなく,一緒に旅をしてきた本。ようやく機が熟したので,読んでみた。「意識は無意識から創り出される幻想である」という主題を,広範囲な科学的知識と考察をもって説明しようとしている。私の出身は,いわゆる複雑系を研究している統計物理なので,マクスウェルの悪魔に関する考察から始まる筋書きは,とてもありがたかった。ただ,熱力学の法則に馴染みが無いと,始めから読む気はしなくなるかも知れない。

私はタイトルからてっきり「意識という幻想」を徹底的に考察する本だとばかり思っていたが,原題の通り,科学的知識を用いて「世界を感知する」するための手引き書である。著者の独自の主張は,恐らく11章に集約されていると思う。

複雑系や統計物理を学ぼうとする時に,この分野が含んでいる広がりを知る絶好の指南書になるのでは無いだろうか。

教科書には書いていない大切なことが,沢山書いてある。9章にてキリスト教とユダヤ教の教義の双方の問題点を神経生理学的に指摘している。13章では,生命活動が熱力学第2法則に従いエントロピーを増大させながらも,地球全体としてみた時に秩序を保てる理由を,エントロピー収支という発想で説明している。一番衝撃的だったのは,12章で,意識の誕生が〈二分心〉の崩壊とともに始まったとする話。古代メソポタミアの最も古い文献から

「女神も私を見捨て,よそよそしい。寄り添って歩いてくれた守護天使も去ってしまった」

という記述を引っ張ってきて,それを宗教的な話と片付けるのではなく,人間の意識が産まれる過渡期の人間の意志作用と位置づける発想には,拍手を送るしかない。その発想はなかった,と。この本を読んでいる最中に,たまたま本屋でドクター苫米地の自伝を発見したわけだが,この2つの本が,恐ろしいほどマッチしていていて,面白い。

また,この本は,私が大学院を去った後に私が感じていた学問に対する洞察の集大成だと言ってもいいかも知れない。理論物理学を志す時に最初にぶつかった壁が,還元主義・構成主義では,世界は「理解」できないということ。それを突破するために統計物理学に足を踏み入れたが,今度は人間が物事を「理解」することとは何なのか,分からなくなってしまった。理解というのは,観測者の観測の荒さを定義して初めて成り立つもので「ありのまま」をほんとうに記述するには本当は「ありのまま」しかない。理解をする人間の頭の中身は,脳みそであって「ありのまま」ではないから,「ありのまま」はやっぱり理解できないのである。物理学者はそういう時に何をするかというと,ありのままの事象から興味の無いものを捨象して,エッセンスを抜き出してモデルを作る。そうして抜き出されたモデルをとおして,物事を理解しようとするのだ。それはちょうど,人間の脳みそが体の各素子から送られてくる電気情報から興味の無いものを捨て,そのエッセンスを意識に投影するのによく似ている。

物理学は,役に立つ/立たないという意味では役に立つし,私の中では至上の学問であることに変わりはない。ただ他のどんな学問と同様に,人々が素朴に求める真実は教えてくれないということなのだ。

是非ご一読を,と容易に勧められる本ではないが,強烈に私の経験にシンクロする本であった。

ユーザーイリュージョン―意識という幻想

ユーザーイリュージョン―意識という幻想