空想犬猫記

※当日記では、犬も猫も空想も扱っておりません。(旧・エト記)

月曜日:旅立つ者と、見守る者

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昼ご飯はマカロニグラタン(の失敗作)。夕飯は手作りの汁そばとカレーの残り。一日中基本ライブラリの修正を行っていたため、ビルド時間で大幅に時間を消費する。

K氏の学校が始まる。K氏は学校で教わる歌と、登下校中の信号機のタイミングを研究するのが目下の楽しみのようだ。「信号ある、信号あーる、信号 all the way」とか自分で替え歌を作ってくすくす笑っている。

毎日変わるM氏の表情が、今日はやけに大人っぽい。「きんぎょがにげた」の金魚を指で指せるようになる。覚えたての「open」という単語を活用して、お菓子の袋、おもちゃ箱、絵本、扉、柵、傘など、何でも開いてもらおうとするところが可愛らしい。これから旅立ちそして世界に分け入っていく最初の言葉が「open」というのはなんて素敵なことだろうか。

これまでの人生の半分以上、私は自然言語にあまり興味がなく、注意を払ってこなかった。数学や物理こそが総てだという信念があったからだ。しかし、ようやく教科書に書いてあるようなことを大体学習して、研究者の入り口に足を踏み入れようとしたところで、自分が探していた森羅万象は内なるものであることに気がついた。正確には、森羅万象のあまりの大きさと、それを投影する人の頭脳のあまりの小ささに知性の限界を感じたのだった。

学生の頃、国語の成績はあまり振るわなかった。言葉を分解するのが楽しくなかったのが大きな理由である。一方で言葉の繋がりや語彙の絡み合いが作り出す模様に惹かれて詩集を眺めるのは好きだった。いま思うと、自然言語にも、数学や物理学に似て人間の思考をなぞるような緻密な構造があり、それを無意識に愉しんでいたのだと思われる。