「【コラム】世界の街角から」が面白い+雑感
私はこの著者の方については全く知らない。何気なく読んでみたら興味深かった。タイトルは「世界の車窓から」みたいなものをイメージしてたんだけど,そうではなくて,「いま世界(の街)で何が起こっているのか」について独自の視点から書かれているようだ。
興味深かったものを紹介してみると,
これまでI-netをめぐる論議は主としてプログラマーなど技術畑の人達によって、「I-netで何が可能になるか」といった分野に集中してきたように思います。無論、この分野の研究は必要で、成果の一つが梅田望夫氏の「ウェブ進化論」(筑摩書房)でしょう。この本の価値は、普通の人に来たるべきI-net社会の姿を分かりやすく説明したことでしょう。
しかし米国に来て見ると、これはやはり「入り口」の議論であって、米国研究者の主な関心は「I-netが社会をどのように変えるのか」、あるいは、「どう変えてしまったのか」という出口の議論に移っているような気がします。そして、この分野で活発に議論を交わしているのは技術系の人でなく社会心理学、哲学、法律家であることが特徴でしょう。(ニューヨークで考えたこと(2))
技術がもたらすものは,新しい時代の「入り口」であって,実際,世界はどう変わっていくか,どう変えてしまったのか(出口)についての議論が,いわゆる文系の人々の興味の対象になっているということ。もちろん,こういう視点は技術者も持っていなければならないと思う。おお,たいそうなことではないか。
今回、私がコロンビア大学で何度か教えを受けたビジネススクールのエリ・ノーム教授は05年に、「何故I-netは民主主義を悪くするのか」という比喩的な論文の中でこのように述べています。
教授は情報へのアクセス、個人、集団の意見表明のといったインターネットの機能を評価した上で以下の疑問を提示します。
- I-net にはミクロ情報を結論に短絡させる生理的欠陥がある
- 全ての人が聞くことより語る方にエネルギーを使う傾向がある
- I-net技術がテキストベースからビデオなどネットキャスト時代に入るとデジタルデバイト(技術を持つ人と、持たぬ人との格差)だけでなく投入資源が問題になるから、結局、資金のある政治家や団体企業に有利な技術となる
- I-net交信では量が問題になるから質に転化させる機能がない。自分たちの意見を多数にするために議論を単純化させ、過激にする傾向がある
- I-netには多様な意見を調整する機能が働かない。
- 直接参加というが首相にメールを送っても精精、自動化された反応があるだけ。そこで量に頼ることになるが、この繰り返しは送り手、受け手双方をシニカルにするだけ。結局、手書きの手紙が一番有効という皮肉な結果となる。
- I-netに社会を動かす力があるのは事実。しかし、これは過激な革命にも結びつく。民主主義は、一種の不変性、不活性さも必要だ。(ニューヨークで考えたこと(2))
面白いことに,ここであげられている殆どについて,私は楽観的であり「なんだ,やっぱり Google は正しいじゃん(民主主義は機能する)」と思った。予め断っておくと,私はこの項目の表面的な字面しか追っていない。氏の指摘は,実はもっと深いのかも知れない。1 については続きの議論でも触れられている通り,新しいメディアにまだ人々が慣れていないだけともいえる。2 は良く理解していない。3 は技術の進歩により,むしろ動画作成の技術がコモディティ化してると考えるのが妥当な気がする。4 についても,まさに技術屋が奮い立つような課題であり,楽観視してしまう。5,6 は良く理解していないが,大して重要だとも思わない。
もう一つ,ネットで起こる現象を,用語として認識しておくことで,人々が,より賢くなれるなと思ったのは「サイバー・カスケード」という言葉。なんで「サイバー」なのかよく分からない。ちょっとサイバーなものに対する不信感みたいなものを感じてしまう造語だ。意味はもう少し一般的なものらしい。
これは前回も引用したキャス・サンスティーンが「インターネットは民主主義の敵か」で指摘した「サイバー・カスケード」(雪雪崩現象)の典型例である。サンスティーンは言う。「サイバー・カスケード現象は次の4段階で発生する。(1)少数の人たちが何かについて発言する。(2)直接情報を持たない人達がそれを信じる。(3)大勢の人達がこの発言に注目始める。(4)皆が言っているので間違いはないと考え、この発言を鵜呑みにする人の数が増え続ける。
重要なのは、多くの人がある情報を確信する際に、「皆がそう言っている」ということを理由にすること。また人間の持つ根本的な感情として、「聞きたい情報を信じたがる」という要素があることだ。(ニューヨークで考えたこと(3))
引用しておいて何だが,これは,さも重要そうに指摘されているんだけど,私は「だからどうした?」と思ってしまった。それが我々の生きてる世界じゃないかと。これは,人間の生理的な不完全さを指摘するものだけど,私は逆に,そうやって人間社会は出来ているのだと思っているので,それをどうにかしようとすることは,逆に人々から自由を奪うことになるのではないかと思った。
私は,ネットの世界は本当に平等であると思っている。ネットの世界での発言は,どれも等しく,小さな個人の意見として扱われる。「あるふぁブロガーの人々の意見が注目されてるじゃないか」という指摘もあるかもしれないが,それは,ブロガーに注目し,投票(ブクマ)する人々の意見が反映されているからだと思えば,それは個人の意見ではなく,皆の意見も混ざった,総意であるといえる。そういう意味で,やはり平等なのだ。
問題はそこではなく,その雪崩現象が進む速度をどういう風に制御すると,好ましい速度で社会が発展し,崩壊を招かずに皆がハッピーになれるか,ということだろう。ネットの世界が平等だからといって,皆の総意がすぐに反映されるわけではない。情報の流れには慣性がある。例えば,あるふぁブロガーが,ある日突然アホなことを言い出しても,しばらくは皆,耳を傾ける。最終的に「あいつは終わった」と皆がその人を見切るまでの時間,慣性によって人々によって,本来,欲しくないない情報が浸透してしまったことになる。
それらを技術によってどの程度制御することができるか,人間の情報処理能力や,地球の自転速度や人間の生理的な時間にマッチした,最適化されたパラメータが存在するのか,などについて考えるのは非常に興味深いと思った。
最後に,Web とは全く関係ない仕事をしてるけど,技術者の端くれとして楽観的なことを書いてみる。
私には,生き物のように感じられる,このウェブの世界がどうなっていくのか,人はどうしたらいいのかと考えたときに,とりあえず私が,人にすすめるのは,ブログを書いたり,ソーシャルブックマークに参加したり「なんでもいいから,ネットに流す」ことだと思う。自然の河川と違って,この河にいくらゴミを流しても,システムは崩壊しないだろうという見通しはなんとなくあるし,いずれ技術が正しくそれを選り分けてくれると思っているからだ。その「正しく」選り分ける技術も,人々の総意によって「正しく」選り分けられるはずだから。