空想犬猫記

※当日記では、犬も猫も空想も扱っておりません。(旧・エト記)

行方

本日、開発環境の英語マニュアル(全 276 頁)をほぼ全て読み切った。 マニュアルに出てくる英単語は易しいとはいえ、自分の英語力もなかなか捨てたものではないことを実感。
時として、自分でも恐ろしいくらいの集中力と記憶力を発揮する時がある。 それが錯覚だとしても、少なくともふだんを遥かに凌ぐ効率で作業がはかどる状態だ。 高校時代にも、単語を一日で数百覚えた日が、ほんの1日だけあったが、 この精神状況をいかにすれば人工的に作り上げることができるだろうか…。 僕はいかなる環境でも寝れるし、ある意味無神経であるように自分でも実感していたが、 自分は自分なりに相当 sensitive な部分を持合わせているらしい。
例えば、人呼んで「ガラスの脳髄」などと、自分の繊細さや儚さに酔いしれることができるならば、 それはそれで大いに結構であるが、そういう虚しい自己満足は先回りして回避せねばなるまい。 そもそも「ガラスの脳髄」では酔いしれることはできない。

さて、この頁は日記という形式を保ちながらもあくまで「虎之巻」として存在している。 そこに「なんで人は(他人にあまり意味のない)日記を公開するのだろうか」 という悲観的な疑問と、「何か面白そうだ」という適当な理由が交差しつつ、 その正当性をとりあえず保留した形でスタートした、という腐心の顛末が凝縮されていることを、 赤色の他人は知る由も無いでしょう。 ていうかそういう意図があったのです(うーむ、まことに東大生らしい能書きであることよ)。 まあ始めた時は、良く分からないでも、適当に出来事や感じたことを書いてきたわけだが、 今やその方向性は少しずつ変化していると思われる。
少なくとも僕の場合、ここに書くことの殆どは、実際に起こったことであるのは勿論であるけれど、 同時に、かなり虚構なのである。 虎之巻を書き続ける過程の中で、特定の人間像が浮かび上がってきたけれども、 不思議なことにまるで自分にリアリティを感じさせないのである。 おそらくそれは、このページが他人の目に触れることを前提に作られ、 そのために書かれた文章であるからだろう。 公開することを目的に作成された日記は、本質的にプライベートな日記とは性質を異にする。 作者は、日記をしるす中で、目に見えない大勢の人間と、そして自分自身と、 知らず知らずの内に対話しているのかも知れない。 僕はこの文章を書く中で、自分を投影したような人格の欠片を垣間見ることで、 ときとして自分について客観的に観察し、新しい発見などもする。 そしてまた、これを読む赤の他人の頭の中で、なにかしらの発想が生まれることがあれば、 このページの存在価値としては十分なのではないだろうか。