空想犬猫記

※当日記では、犬も猫も空想も扱っておりません。(旧・エト記)

日曜日

昼は昨晩の残りのチキンスープとチキン。

先日亡くなられた義理の祖母の弔いに近所のお寺に行く。お寺の建物から漂う年代ものの臭い。カビや酸化し尽くした人間のdead skinや脂の臭い。古い旅館の臭いから漂白剤の臭いを差し引いたもの、とでも例えると分かり易いだろうか、とにかく小さい頃に町の公民館とか林間学校の寮などで感じたあの雰囲気が思い出されて妙に懐かしい気持ちになった。

寺の坊さんはなに言ってるかさっぱり分からなかったが、慎ましく善き人であることは言葉を交わすまでもなく伝わってきた。奥さんの宗派の慣例として、どの寺院にもたいてい占い師のできる坊さんがおり、奥さんはどちらかというとお婆さんの弔いよりも占いに時間を費やしていた。

かつて占い師に、実家の家業(これは当たってた)や先祖の家業(落武者)、持病(心臓が弱い・聞いたことない)などを指摘され、まぁまぁ当たっていて、不思議なものだとは思っている。それより面白いのは、その宗派ではかなりの大多数の人々が占いを信じていて、人々の心の支えや人生の指針になっているという事実である。宗教にはまず入り口に奇跡とか超常性があって、論理では否定されえぬ砦のような役割を果たしている。しかし本質は、教義によって人々の心の動きを一つの方向に導き、大きな力を引き出す装置に変える働きにある。哲学や道徳、教養一般も同じ効果があるが、宗教は奇跡によって論理をやすやすと超越できるぶん、間口が広いのだ。これは裏を返すと、緻密な論理をクネクネする理性的な人間よりも、論理をすっ飛ばして直近の現実的な問題に重きを置く人間が圧倒的に多い、すなわち淘汰が有利に働いているということになる。まぁ集団としての生命現象についての知見と個人の幸福とはまた別なので、だからどうしたということでもない。

奥さんは信心深くないとは言うが、もともと信仰心の厚い一家の人なので、こうしてお寺に詣でているし、何よりうちの家系では見たことのないような楽観的で幸福で平和な人物なのだ。「お給料とボーナスも出るようにお祈りしておきなさい!」とか言ってたし、なんともありがたい仏様である。

なお占い師によれば、奥さんは「どこで暮らしてもこの先幸せ」「旦那さんは素晴らしい人だ」「頭痛や些細な体調不良を治したければお供え物持ってきなさい」などのアドバイスを受け、満足したようだった。まぁまぁ当たっていて、不思議なものだ。

礼儀正しい私は、ただただ、お婆さんの安らかなる成仏をお祈りした。

晩飯は子供のお守りをしながら自炊。子守はあまり気張らず自由に遊ばせる。プレスクールのクラスルームから教材の動画をダウンロード中、待ちくたびれたK氏が上半身だけソファーにうつぶせになって、膝をかくっかくっとさせながら寝落ちするという珍しいものを動画に収める。坦々面とカレーの王子様卵とじうどん。夜中に腹痛で目覚める。因果関係は不明。

眠れなくなったので、コンパイラの本を復習。改めて数年前に無我夢中で実装したetolispの設計の有用性を確認した。キッカケはよく覚えていないが、数年前、突然何かに取り憑かれて俺Lispインタプリタを書いていた。そのとき何をしたかったのか自分でもよく分からず、その後、0からVMベースの王道の実装で作りかけたところで、大きな森に迷い込んでしまい、全てお蔵入りになっていたのである。今振り返ってみると当時何をしたかったのか、当時より明確に説明できるし、舗装されつくした王道の実装が頓挫した理由も説明が付く。C++の実装技術も俺スケールでレベル7から11くらいにあがった。王道よりも自分が開拓した道にその先があった。この件は今年中に書こうと思う。