空想犬猫記

※当日記では、犬も猫も空想も扱っておりません。(旧・エト記)

歯磨き

今日は幼稚園の先生と面談。私立幼稚園の先生は、僕が説明するまでもなく、とてもよく子どもたちのことを理解して見てくれているので安心した。

K氏は三歳も過ぎて他人に全然興味がないというのが一番の心配なのだけど、どうやら色々分かってるみたいで、集団の中では行儀もよく、決められたこともちゃんとやって、むしろ模範的なのだそうだ。

教育の目標は、何はともあれ、子供たちが環境の中で、なるべく幸福に生き抜くための術を体現し、体験を通して習得することだと思う。各種スキルはその手段に過ぎないし、社会のルールも個人の幸福という観点から演繹して理解しないといけないと思う。ルールを天下り的に受け入れてから、考えるほうが効率がよいが、その方法は本質を容易に見誤る恐れが高いので着実ではない。

僕は「ダメなものはダメ」というのが嫌いで、押し付けられたルールを鵜呑みにして積み重ねて成長して欲しくないので、息子の知性を信じて、明らかな不都合が生じて息子が気づくまでは、じっと見守るようにしている。そうすると、じっさいけっこう大変なことになりかけたりする。

最近の話題だと、歯磨きのあと口をゆすいだあと「ぺっ」と吐く水、あれをわざとシンクの外に出すのだ。困ったものなのだが、以下の事情により叱らずにいる。

僕自身、歯の大切さに気付いたのは二十歳を過ぎてからだった。虫歯は詰めれば治るものと教えられており、歯のケアは大したことないと思っていたのである。しかしながら、詰め物は劣化するし、再度詰めなおすたびに、少しずつ余計に削られていく。神経が膿んだり、そもそも金も掛るしで、三十を過ぎる頃には歯のケアは人生三大後悔のうちの一つになっていた。歯の大切さはそういったタイムスケールにおいて初めて定義されうる。その経験からすると、歯の大切さは、息子にはまだまだ理解し得ないことであって、僕が親心という、子供にとっては単なる親の都合で、仕上げ磨きを特別入念に面倒見てあげている。歯磨きの時間は親子関係においては、親が子供の時間を奪って口の中を勝手にいじる時間なのである。当然、口をゆすぐ必要性も本当に理解できていないので、押し付けルールはしない原則にのっとって、僕が勝手にやっていることになる。子供にとっては、まぁ、遊びの一環としてとらえるのが自然だろう。

そしてシンクの外に水を吐くことの何が悪いかというと、僕が掃除をしなければならなくてメンドウだからという僕の事情による。息子のためとはいえ、形式的には親の事情で子供の時間を奪っているのに、掃除が面倒だからという親の事情で子供を叱るのも理不尽のきわみである。

押し付けしない原則にのっとりつつ、これを止めて欲しい場合、子供にとってはそれなりのインセンティブが必要になるのだが、それを用意するリソースが自分にないので、とりあえず「困ったもんだな」と不満を表明して、僕が掃除をする。

僕が相手をするとき、息子の行儀は確かに悪いが、キラキラとした目の輝き、純粋な笑顔の表情、自由な表現力は、本物だと思う。この方法で正しいのだと思っている。

という家での教育を踏まえて、息子が学校では模範的に振舞ってるらしいというのを聞くと、

「やるじゃん」

と思うのだった。