空想犬猫記

※当日記では、犬も猫も空想も扱っておりません。(旧・エト記)

バイクのたしなみ 〜2004年1月といまを繋ぐ

以前より書こうと思っていたバイクについて記すとしよう。バイクというと一般的には「危険」とか「うるさい」といった良くないイメージが強い。確かにその通りなのだが、それは物事の表層でしかない。

「〜乗り」という言い方は、バイクの他には飛行機や船、特徴のある車などに使われる。それらは感覚的に近い距離にあるもの、どうやら人々のロマンを掻き立てるものに適用されるようだ。バイクに一番近い乗り物は何か、といえば「飛行機」だろう。旅客機ではなくて、戦闘機や競技用の小型機、乗ったことは無いのだけれど。「紅の豚」とか、あのあたり。

はじめは「自転車の延長として」考えていた。自転車に原動機をつけることによって自転車をこぐ手間が省ける、どこまでも遠くに行ける足を手に入れられる、などと思っていた。しかし初めてモトクロスバイクに乗ったとき、いきなりその幻想は打ち砕かれた。自転車よりはるかに高性能なサスペンション、膝まで埋まってしまうような深いわだちの中をぐいぐい進んでいくその走破力。サスペンションとダンパーの効果によって、高いところから着地しても、衝撃が最小限に抑えられること。そのどれも全てが感動的だった。

感動をもたらすそれは、理学、工学、その他人類が築き上げてきた科学技術の上に成り立っている知と経験の産物だった。フレームの構造やパーツひとつのデザインに至るまで、計り知れない蓄積がある。給排気や気化器のアナログ制御には独特の奥深さがあり、電子制御では数学的アルゴリズムが、量子力学的知識を応用したシリコン上で走っている。そんな知識の粋を集めて人間の能力をはるかに上回る力を持つ機械を作ってなお、それを乗りこなすには尋常ならざる精神力、体力、集中力、恐怖心の制御、すなわち人間の能力を限界まで必要とする。つまり、この体験は人類が長い歴史の中で獲得してきたあらゆる要素の土台の上に、ようやく存在しうるものであった。そのことに気づいたとき、感動は何倍にも膨らんだ。

スロットルをひねればエンジンは回り、バイクは前に進む。「あ〜気持ちいいな〜」と感じることは、たんに風と一体になることだけではなくて、同時に人類の進化の歴史や、おそらく犠牲となった尊い命、全てを包み込む時空の流れのさらに外側にある情報空間に寄り添って一体になっているということなのだ。この一体感が、僕のバイクを乗る愉しみの根幹である。

バイクは人間の狂気を誘う一面もある。風圧の向こう側に、知らない世界を見る。メーター250km/hを超え、よじれるフレームを押さえつけ、景色が生まれる視界の中央がどんどん狭くなっていく、そんなとき到達感を覚える。それは恍惚だ。ワインディングで、コーナーを抜けたその先に太陽が輝き、銀色に輝くアスファルトがぐんぐん迫ってくる。風を受け、風景が溶けていく、自然と一体になったかのような錯覚。それは死と隣り合わせの恍惚だ。破滅的な幻想である。この死神の甘い誘いは、しかし拒まなければならない。入念に安全を確保した上で少しずつ限界を知ることで、境界線をおぼろげながらに探し、想像するのである。狂気に近付く愉しみ。これは尊敬されない。尊敬されることは目的ではないが、しかし最低限のそれは手段として必要なので、僕は「狂気の果ての、知らない世界に何があるのか?」という問いに「何も無いよ」とウソをつく。

バイクの愉しみ方は人それぞれで、それがまた愉しい。一個人でさえ、時を経て愉しみ方が変わっていくこともあるだろう。これは僕の個人的な愉しみ方のひとつだ。


…大体ここまで書いたのがおよそ8年前。その2年後、僕は最後のバイクを売り払い、その後、結婚して、息子ができた。子供にはバイクにはあまり乗ってほしくない。なんて自分勝手な矛盾を抱えている凡庸な大人になりつつある。対照的に、物を知らないぶん純粋でぶれない若さを感じさせる自分が、かつていた。

ローンを組んで家を買って、凡庸さをここに極めた2011年。今年は再びその頂から来し方を振り返って見ようと思う。

あのとき見ていた風景を、同じ目で、今また見ることが出来るだろうか。

過去に記した文章に少し考えさせられたのだった。